大村智記念学術館 開館記念 ノーベル賞受賞者 特別対談
~本音で語るノーベル賞への道~

 2015年にノーベル医学?生理学賞を受賞した山梨大学卒業生の大村智先生(山梨大学特別栄誉博士)の偉業をたたえるとともに、功績を末永く顕彰する「大村智記念学術館」が2018年7月19日、山梨大学皇冠体育比分直播に創設されました。
 その完成を記念して、大村先生と、京都大学教授で2012年にノーベル医学?生理学賞を受賞した山中伸弥先生の特別対談が行われました。山梨大学の島田眞路学長が進行役となり、お2人が研究者の道へ進んだ経緯や研究の面白さ、ノーベル賞研究のきっかけなどについて語りました。

 完成記念式典の様子
 特別対談の様子

映像

講演録(各項目をクリックすると本文が表示されます)

  • ▼スポーツから学んだ「百折不撓」の精神

    • 島田学長 
       本日は大村先生と山中先生をお迎えしまして、このような機会をいただきましたこと、大変感謝しております。ノーベル医学?生理学賞というのは受賞するのが大変難しく、日本人でまだ4人しか受賞されておりません。最初は1987年の利根川進先生で、外国での仕事(免疫グロブリン遺伝子再構成)で受賞されました。2番目が山中先生が2012年にiPS細胞の発見という素晴らしいお仕事で受賞されました。3番目が2015年の大村先生がイベルメクチンの発見で、そして2016年に大隅良典先生が基本的な細胞のメカニズム?オートファジーの研究で受賞されております。大変誇らしい限りです。
       大村先生、山中先生お2人を拝見しておりますと、科学的な研究力はもちろん、洞察力、独創性、それがないとノーベル賞は取れないと思いますが、それ以外に我々と違う何かを持っていらっしゃると感じておりまして、それは総合的な人間力ではないかと考えております。今日はそういうところを先生方から引き出せれば幸いです。
       お2人のバックグラウンドを聞いていますと、学者家系に育たれたということはありませんよね。大村先生は山梨県韮崎市の農家のご出身で、高校まではスキーにご傾倒されていたそうですね。スポーツとノーベル賞は一見関係ないように思えますが、そういうところで人間力が磨かれたと拝察していますが、いかがでしょうか。

      大村博士 
       私にとってはスポーツとノーベル賞は、ものすごく関係があることです。高校時代からスポーツに明け暮れまして、山梨大学でもどちらかといえばスキーを熱心にしていました。その経験から人生でかけがえのない事柄を学ぶことができたと思います。私がやっていたクロスカントリーは非常に耐久力が求められる厳しいスポーツです。先ずレベルの高いところで練習し、さらにそのレベルを超えていくためには、独自のもの、先生などに教わったものだけではなく、自分のものを持ってやっていかなければならないことを学びました。スキーだけでなく研究も全く一緒です。何があってもくじけない、「百折不撓」ですね。これはまさに長距離のスキーで学んだと思っております。

      島田学長 
       大村先生は山梨県だけでなく、新潟県で日本を代表するスキーヤーであった横山先生の指導も受けられたということで、先生から「鼻水をふくな、それぐらいの余裕があるなら一歩前に出ろ」と言われたという話が大変印象に残っております。

      大村博士
       
       やはりいい先生に就かないとダメだというのは言えると思います。「正師」という言葉がありますが、私は正師に出会ってきています。スキーだけでなく、いろんな場面で本当に素晴らしい先生方に出会うことができました。

      島田学長 
       大村先生はいつも「一期一会」とおっしゃいますが、そのことがよくわかりますね。一方、山中先生はスポーツというと柔道、ラグビーをやってらっしゃったということですが、そのあたりについてはいかがですか。

      山中博士 
       まず、今日は大村先生の記念学術館の開館にご招待いただきまして非常に光栄です。ありがとうございます。私は学生時代に柔道とラグビーをかなり一生懸命にやっていました。2003年に人生で初めてCRESTという年間5000万円から1億円を5年間支給されるという、とても競争率の高い大型研究費をいただきました。その面接が岸本忠三先生という大阪大学元学長の本当に素晴らしいけれど怖い先生で、岸本先生の面接が人生で一番緊張しました。そこで岸本先生に「あんた、強みは何や」と言われ、「僕は柔道とラグビーをしていました、体力と根性はあります」と答えましたら、「そんなことは聞いてない」と言われました。結果としてはそれがよかったようで、CRESTに採用されて、iPS細胞の研究ができるようになりました。柔道とラグビーをやっていなければ研究生活を続けてこられなかった、そういう意味でもやっていてよかったと思いました。

      島田学長 
       スポーツはひとつの共通のものかと思いますが、その後お2人は大学に進まれますが、2人ともお父様から言われて、大村先生は「大学に行きたかったら行ってもいいよ」、山中先生は「医学部に入っては」と言われ、その道に入ったということですよね。そして大学卒業後に研究に入られたということですが、山中先生は医学部を卒業されて、スポーツ医学を目指されていたそうですね。

      山中博士 
       学生時代から自分がケガやスポーツ障害で苦しみましたので、そういうスポーツで怪我をした人を診られる整形外科を目指していました。それが学生時代のビジョンでした。

      島田学長 
       でも幸か不幸か、残念ながら手術はお上手ではなかったとか。

      山中博士 
       父親は本当に器用なエンジニアでしたが、私はどうもうまくいかなくて。人間の手術はもし何かあったら大変なことになると思うと緊張してしまって。でも動物実験はものすごく上手くて、そのおかげで研究者になりました。

      島田学長 
       先生が手術がお上手だったら整形外科の方で大成され、ノーベル賞はなかったということですかね。

      山中博士 
       自分ではそこまで下手ではなかったと密かに思っているんですがね。その時に指導してもらっていた尊敬する先生が、ノーベル賞受賞前後にテレビでインタビューされていまして、「下手でしたね」と言っていました。そのあと先生から電話がかかってきて、「すまん、すまん、下手と言うつもりはなかったけれど、そう言わないとテレビの人が帰ってくれんかったのだよ」と言っていました。

  • ▼勉強し直そうと思い、研究の道へ(大村博士)

    • 島田学長 
       大村先生は大学卒業後、高校の先生になろうとされましたが、山梨県で先生の職がなかったとお聞きしていますが。

      大村博士 
       昭和33年のころはとても不景気な時で、山梨では体育の先生しか募集していませんでした。それで県外の中学と高校の試験を受けたのですが、神奈川県の採用試験に落ち、北海道も落ち、一番難しい東京だけ何故か受かりました。私の人生でとてもラッキーなことでしたね。都立高の定時制に勤めまして、スキーばっかりやっていましたから、先生と言われるほどの力がないなと思っていた矢先のことです。近所の中小企業の工場で働いている生徒が、ある試験の時に油まみれの手で答案を書いているのを見て、本当にショックを受け、自分ももう一度勉強し直そうと思ったんです。
       まずは元の東京教育大の理学部の聴講生になり、そこで非常にいい先生、天然物化学の大家である中西香爾先生に出会い、1年間通いました。その後、中西先生の推薦があって東京理科大に入りました。今考えると、よく体がもったなと思います。理科大で昼は実験の準備をしたり講義を聞いたりして、夜は高校に教えに行き、さらに夜は東京工業試験所(現?産業技術総合研究所)でいろんな実験をさせてもらいました。
       実は理科大での修士は2年で終えるところを私は3年かかってしまっています。なぜかというと、与えられたひとつのテーマをきちっと研究したのですが、その研究内容をそっくり横浜国大の先生が発表してしまいまして、これでは修士論文にならないということで一年落第しました。それがよかったんです。なぜなら東京工業試験所に60MHzのNMRの第一号が入りまして、修士の学生でありながら夜中に使わせてもらいました。それがその後の研究生活にどれぐらい役にたったか。しかもおそらく天然物のNMRをとったのは日本では私が最初ではないかというぐらいの時期でした。
       その後、山梨に帰ってきて、ここでも坂口謹一郎先生という良い師に出会いましたが、いいところでそれぞれいい先生に出会っているのは幸せですね。坂口先生は「微生物に頼んで裏切られたことがない」という名言を言われていました。その後、北里研究所に入り微生物と化学の両方を扱う研究に携わりました。

      島田学長 
       大村先生はもし山梨で理科の先生になっていたら、どうなられていたかと思いますね。たまたま募集がなかったということですものね。

      大村博士 
       校長先生ぐらいにはなっていたかもしれませんね。でもマイナスが良かったということはあります。NMRとの出会いもまさにそうです。5年間高校の先生をしまして、山梨大で2年間、発酵化学の研究をして、その後北里研究所に移りました。私は新卒と同じ試験を受けて入りました。当時、北里研究所で発見された化合物は構造がひとつも分かっていませんでした。そして、みなさん寄ってたかって構造研究をしているのですが、成果が上がっていなかったんです。そこで私が落第して学んだNMRが生きてくるんです。みなさんが5年も6年もかけて構造研究しても決まらなかったものを、私は数カ月で決めていった。それで新卒扱いが一気に室長にしてくれたりして、研究ができるようになっていきました。あの時、修士をとんとんと終了していたら、こうはいかなかっただろうなと思います。

      島田学長 
       北里研究所での職は、最初は助手でもなく技術補佐員だったんですよね。

      大村博士 
       黒板ふきですよ。だから若い人も落第してもそんな心配することはありません。いいことがありますよ。

  • ▼「予想外」への好奇心から新しい研究へ(山中博士)

    • 島田学長 
       山中先生は大阪市立大学の薬理学教室に行き、ある血圧に関する実験で新しい発見をして認められていったということですが、いかがでしたか。

      山中博士 
       2年間、研修医として大学にいましたが、同じ医学部なのに全く別世界でした。研修医は毎日怒られて、本当に受け身で、言われたことをいかにこなすかが大切でした。でも大学院に入ったら何も教えてくれないんですよ。論文を読んで何をしたいか考えなさいと。夏まではそんな状況で、さらに大学院の指導教員の先生から「僕たちは人数は少ないかもしれないが、世界と競争している」と言われ、そこも全く違いました。研修医の時は世界と競争なんて思ったことがありませんでした。
       夏休みぐらいの最初の実験で予想と正反対のことが起こって、それを見た自分の反応に一番驚きました。ものすごく興奮して、好奇心が掻き立てられて、その瞬間に自分は研究者に向いていると思いました。そういう予想外のことが起きた時に困るタイプの人と、おもしろいと思うタイプがあります。どっちが良いという話ではなく、その人の性質だと思いますが、僕の場合は予想外のことが起こったことに驚いて興奮したんです。その大学院の最初の実験は、その後の僕の人生に影響したと思います。

      島田学長 
       それでいくつかよい論文を書かれて大学院を卒業され、その後は留学されているんですよね。

      山中博士 
       アメリカに留学しまして、留学先の先生の仮説を検証する実験をしたんですが、これがまた半端なく予想外のことが起こりました。そのボスはある遺伝子を研究していて、その遺伝子が動脈硬化を防ぐのに使えるのではないかという実験だったのですが、大村先生のように何万人、何億人を救おうと思っていたその遺伝子が、僕が調べると病気を治すどころか、癌をつくる発癌遺伝子だということが分かりました。ボスはがっかりでしたが、僕は何でこの動脈硬化に関係すると思った遺伝子が強烈な癌をつくるのかと思い、僕の研究がその実験結果に引きずられて変わっていって出会ったのがES細胞、そしてできたのがiPS細胞でした。

      島田学長 
       留学先で癌遺伝子APOBEC1を見つけ、そのターゲットとなるNAT1という新しい遺伝子を見つけられたんですね。

      山中博士 
       どうして癌が起こるのかという過程で、癌を抑制するのに大切だと思ったのがES細胞の万能性だと分かり、それで万能細胞の虜になりました。

      島田学長 
       やっぱり先生は何か持っておられますよね。普通のセオリーとは全く違う結果になり、そこからまた話が進んで行く感じですね。

      山中博士 
       僕の場合は最初の実験がそうだったのでラッキーかもしれませんが、学生を指導しても予想外なことはしょっちゅうあります。その時にがっかりするのか、すごいすごいと思うのか。それで随分違うと思いますね。

      島田学長 
       その驚きを大切にされたことは、やっぱり何かを持っておられて、それが新しい発見につながっていって花開いたのなだと思いますね。大村先生はいかがですか。

  • ▼あえて大変な道を選んでよかった(大村博士)

    • 大村博士 
       私はNMRの使い方、測定から原理からすべて修士時代に学んで、北里研究所では数カ月でばたばた構造を決めましたが、その中で隣の部屋の様子を知ったんです。隣は微生物を研究して新しいものを見つけるわけですけど、1年かかっても一つも見つからない、そういうことを繰り返しているのを知ったわけです。一方、私は見つかってきたものの構造を決めるわけですから、楽なことをしている、こりゃいかんと思いました。1年も2年も研究して、あれだけ苦労してようやく見つけたものを、私が1カ月もかからずに構造を決める。これはいかんと。だから自分で見つけようと思いました。それがよかったと思います。NMRは過去のもの、自分で何か人に役立つものを見つけようと、自分から見つけることをやっていきました。
       その中でこれまで見つからなかったものをいくつか新たに見つけることができました。その一つにスタウロスポリンがあります。タンパク質がリン酸化されると活性化して癌につながっていくことがあるのですが、スタウロスポリンはリン酸化する酵素の働きを阻害する物質です。今、スタウロスポリンの発見が基になり、その系統のもの37個が抗癌剤として開発されています。構造解析研究をしていてもかなりのところにいったと思いますが、もっと大変なことをしようと思い、自ら探索研究の道に進んだことがよかったと思います。留学して帰る時も、その経験がなければ産学連携研究の発想はなかったと思います。大変なことだけどやってよかったのではないかと思います。

      島田学長 
       スタウロスポリンはリン酸化を抑える基本的な薬で、リン酸化は結局癌につながるので、白血病を抑える薬(イマチ二ブ、グリベック)の発見にもつながっています。先生が見つけられたことは本当に大きいものですね。イベルメクチンだけでなく、ファンダメンタルな薬を発見されています。それから先生の留学の話もお聞きしたいのですが、留学先のウエスレーヤン大学のマックス?ティシュラー先生との出会いも大きかったのではないでしょうか。

      大村博士 
       留学したのは1971年のことですから、まさに日本が発展途上の時です。留学する時、自分で見つけたいくつかの面白い抗生物質を持って、発展させようとアメリカに行きました。留学したら間もなく、ティシュラー先生がアメリカ化学会の会長になり、とても大きな学会で学生の面倒なんて見る時間がなくなりまして、先生の研究室に配属されたすべての学生を見てくれと言われ、面倒をみながら研究をすることができました。そして持って行った抗生物質の構造研究や作用機序の研究で成果を出して、8報の論文を発表したので、ティシュラー先生からとても可愛がられまして、向こうではかなり仕事をやらせてもらいました。
       ティシュラー先生のところに行ったというプロセスで笑い話があります。留学しようと決めた時、知っている5人ばかりの先生に手紙を出しましたが、みんなOKでした。でも給料が違いました。年俸でどの先生もだいたい1万6000ドルぐらいでしたが、一人だけ7000ドルでした。それがティシュラー先生です。一番低い給料を選んだのが人生の分かれ道だと思います。ほかの先生の半分の低さというのには何か意味があると思い、家内を説得して選びましたが、本当にそうでしたね。
       行ってみたら施設がよく、好きなことができました。一般的には博士研究員としてボスの仕事の手伝いで終わる事が多いのですが、学生を使ったりしながら好きなことができました。そして何より良かったのが、脂質の生合成と代謝の研究でノーベル賞をとったコンラッド?ブロック先生に留学して2カ月後に会えたことです。ティシュラー先生と交流があり、私の友人のファイザーという会社の部長とも知り合いで、部長が「明日、コンラッドが来るから、お前も来てセルレニンの話をしてはどうか」と言ってくれて、ブロック先生に出会うことができました。私は生化学はあまり勉強していませんでしたが、ブロック先生は私の生化学の先生だと思っています。
       それから1年早々しましたら、北里研究所の所長から手紙がきまして、マイトマイシンなどの発見で著名な秦藤樹先生が定年になるから跡を継いでくれないかと、帰ってこいと言われました。まだまだこれからやろうと思っていた矢先で、このまま帰ってもあんな貧乏研究室ではろくな研究できないなと思い、考えました。そうだ、企業と共同で研究することで支援を得ようと、その代わりに研究の中で有望な化合物が発見されたら特許をとり、そのライセンスをそっくりその企業にやろうと、これを大村方式というらしいですが、それを契約に入れました。
       そこでもティシュラー先生のお世話になりました。ティシュラー先生はメルクの中興の祖といわれる人で、その後ウエスレーヤン大学の教授になったんですが、その先生が私をメルクに紹介してくれたんです。ほかにもファイザーやリリーなどいろんな会社を回ると、みんな200万円とか300万円とかを3年ぐらい出資してくれるというんです。それをティシュラー先生に報告したら、ニヤニヤ笑っているだけなんです。どうやらティシュラー先生がメルクの研究所長に電話して、「サトシの研究を支援せよ、契約を早く進めてくれ」と言ってくれていたんです。私の研究を認めていただいたから紹介してくれたのだと思います。
       あの当時で200~300万円は、大学の先生の年間の研究費です。ところがティシュラー先生はメルクに「サトシに年間8万ドルをやれ」と言ったそうで、当時で2千数百万円です。それを向こう3年間やれと先生が言ってくれていました。留学に行く時は一番安い給料でしたが、帰る時はメルクから一番多い支援をうけて研究を続けることができました。
       メルクはその後も20年間、同額の研究費を支援してくれました。

      島田学長 
       先生はふつうのポスドクではなく客員教授として留学されましたので、研究者としてはティシュラー先生とほぼ対等な立場だったと思いますが。

      大村博士 
       NMRを使ったマクロライド抗生物質などの構造研究を発表していたので、そういったこともあったかと思います。だけどティシュラー先生は私の研究のことはあまり知らなかったかと思いますが、とにかくウエスレーヤン大学に行ってよかったですね。

  • ▼少し無理してもやりたいことに挑戦する(山中博士)

    • 島田学長 
       山中先生もご留学の時は、日本での仕事が評価されて行かれて、グラッドストーン研究所に留学されていますね。なんで採用されたかというと、大学院のときに論文をきちっと書いておられるということだったそうですが。

      山中博士 
       大学院の時に取り組んだ研究で、意外な結果が出たものを書いたのですが、それだけでは無理だったと思います。当時のアメリカでは遺伝子工学が盛んで、それをやりたくてあちこちに問い合わせていました。でも向こうは即戦力がほしいということで、元整形外科医で遺伝子工学を知らない研究者はとってもらえないんです。なのでハッタリで手紙では遺伝子工学のあれもできる、これもできると書きました。書いてもなかなかいい返事がなかったのですが、グラッドストーン研究所のボスのトムからは一度電話で話がしたいと連絡がきて、話した最後に「土曜日も働くか」と聞かれたので、「当然だ、日本人は働く」と答えました。あとから聞いたらそれが決め手だったそうです。決まってからアメリカに行くまで半年近くあったので、その半年間に大阪市大の遺伝子工学の先生のところに弟子入りして学んだので、ハッタリで書いたことも何とかなりました。
       アメリカに行くとすぐにこれやってと指示があり、何月何日までにこの遺伝子を作ってと期限が決められて、何月何日にネズミの受精卵にその遺伝子を注射する予約もしてあるからと言うんです。それは本当に相当のプレッシャーです。トムは僕を試しているのだなと思い、その間はそれこそ必死で、何とかデッドラインに間に合わせることができました。

      島田学長 
       アメリカで新しい遺伝子を見つけたり素晴らしいお仕事をされ、留学から帰ってきて大阪市大の薬理学教室の助手になられますが、山中先生はPAD(ポスト?アメリカ?ディスプレッション)、つまり日本ではアメリカのようないい環境で研究ができなくなり、うつ病のようになったとお聞きしましたが。

      山中博士 
       3年半アメリカにいたのですが、同じ時にいたオランダからの留学生から「日本に帰るなら、PADに気を付けろ」と言われたんです。その時、僕はアメリカの研究が上手くいっていて、研究者としてやっていけるだろうと自信もあって、PADなんて全く気にしていませんでした。でも日本に帰ると、アメリカで研究が上手くいっていたのはボスの力や環境のおかげだと思うようになり、論文も採点評価で、アメリカで通った論文が日本だと通らなかったりすることも多く、英語の文章の意味が分からないとか、けんもほろろで、本当にPADになりました。アメリカに帰りたい、アメリカで研究したいと思いましたね。

      島田学長 
       そこで山中先生は思い切ったことをされましたよね。奈良先端科学技術大学院大学の助教授の席が空いた時に応募されたんですよね。

      山中博士 
       たまたま科学雑誌を見たら募集をされていて、募集内容が自分のやったことにぴったりだったんです。それまでもあちこちの研究室に応募しましたが、コネも何もなくて全くダメでした。すごく魅力的な募集だけど、これがダメだったら研究をあきらめて潔く臨床に戻ろうと思い、あきらめるために申し込みました。

      島田学長 
       それぐらい強い気持ちでおられたわけですね。それで先生は1人ではできない遺伝子の技術を1人でやれると言って申し込まれたとお聞きしましたが。

      山中博士 
       アメリカではそういう技術は高い技術を持った技術員がいてやってもらうんですが、日本はそういうシステムはないもので、でもやり方は理解していますから、とにかくダメだと思って申し込みました。
       これも面白い話ですが、当時僕は研究のためにネズミをたくさん飼っていました。お盆の時、みんなは休んでいましたが、僕はネズミの世話で大学に行っていました。そうしたら電話が鳴り、誰もいないので出てみたら奈良先端大からでした。選考委員の先生から最終候補に残ったのでセミナーに来てもらえますかという内容で、後日奈良先端大でセミナーを行ったら採用されたんです。どうしてお盆の時期に大学に電話してきたのかなと思っていたんですが、どうやら選考委員の先生は山中はお盆も働いているのか確認をするために電話をしたみたいなんです。ネズミの世話も本当に大変でPADの要因の一つでしたが、そのおかげで採用されて、研究を続けることができました。先ほどの大村先生のお話しをお伺いしていてもそうですが、何がチャンスになるのかはわかりませんよね。「人間万事塞翁が馬」と言ったところでしょうか。

      島田学長 
       先生はそのことわざをよく引用されますよね。奈良先端大に行かれて、そこで大学院生を募集しないといけないということで、先生はそこでも一計を案じられますよね。若い人が入ってくれないと困るわけで、先生は助教授で、ほかは教授ばかりだったそうですが。

      山中博士 
       奈良先端大は大学院しかない大学で、全国の大学を卒業した学生がくるところです。毎年、各研究室で新入学生の争奪戦になるんです。研究室を選ぶ権利は学生さんにあって、優秀な先生がいるところは学生が集まりますが、僕は一番若く、助教授で、研究費もほとんどなく、論文もなく、全く無名だったので集まるかわかりませんでした。でもハッタリで研究室の夢を語れば学生がくるかなと思い、語ったのが大人の皮膚細胞から万能細胞のiPS細胞を作るという話でした。学生さんに夢を30分間語り続けました。基礎研究を10年以上していたので、それがすごく難しいことはわかっていましたが、難しいということは一切言いませんでした。30分語り続けたら、定員の3人の学生が来てくれました。その3人が僕の初めての大学院生で、本当に素晴らしい忘れられない学生たちです。その一人の高橋和利君とは今も一緒に研究しています。

      島田学長 
       先生はいつもちょっと高みを目指して、ちょっと無理して、それが成功しているところがありますね。

  • ▼異分野の人と接する機会も大切

    • 山中博士 
       奈良先端大は学生もよかったんですが、植物やゲノムなど全く違う分野の研究者が同じビルで研究しているところがよかったと思います。違う分野の先生と話すこともあり、「万能細胞を作りたいんですが、なかなか難しいんです」と話したら、植物の先生がやって来て、「万能細胞を作るのは難しいと言ってたけど、植物は万能細胞だらけなんですよ」と言われました。「植物は挿し木をすれば、そこに万能細胞みたいなのができて、葉っぱもできる」と言われて、目からウロコでした。自分で勝手に限界を決めていましたが、その話を聞いてできるかなと思いました。山梨大も近い環境があるんじゃないかと思いますが、異分野の人と身近に接する機会というのは非常に大切だと強く実感しました。

      島田学長 
       その高橋先生が山中因子を発見されたんですよね。

      山中博士 
       高橋君は同志社大工学部出身で、学生時代は生物は全くやっていませんでした。言っては悪いんですが、成績もそこそこで、実験をしてもらったら想像を絶するような失敗をしていました。でも1年したら見違えるようにすごい成長をしていて、僕も近いんですが、遺伝子工学の知識がないから僕も無茶なことを言うし、彼もどんどんやらしてくれと挑戦していました。成績のいい子は「無理だと思います」と言うんですがね。当時、ひとつの細胞に24個の遺伝子を入れるなんてクレイジーというのが常識で、2個入ったらラッキーぐらいの中で、彼はひとつの細胞に24個の遺伝子を入れていいかと聞いてきました。そこで僕がえらいのが、「やってみたら」と言ったことですね。24個を見つけたのも僕でして(笑)。

      島田学長 
       無理そうなことでも思い切ってやったことがiPS細胞という素晴らしい発見につながったんですね。大村先生も日本に戻られてから、ご自分のラボを起ち上げられましたね。先生の方も高橋さんという方がいらっしゃいましたよね。

      大村博士 
       戻ってきて研究所から与えられた研究員は高等学校卒業生で夜学で専門学校に通っている2人、その1人が高橋君ですが、それと学卒が1人、修士修了者が2人、これで研究しろというわけです。その時あと何年できるか考えて、まだ若かったので27年ぐらい教授としてできるのだから、慌てることはないと思ったんです。そして考えたのが、今のこの5人に学位をとらせようということが1つ、そして私ができないことをやれるような専門家を育てようと思いました。私のコピーは一切つくらない。有機合成、微生物、生化学などそれぞれの専門家をつくり、一緒に研究体制をつくろうと取り組みました。そうやっているうちに弱体の研究室から、現在数えてみると博士号が百数十人、教授が32人でています。そういう取り組みをしながら研究できたのがよかったと思います。
       また研究テーマのひとつとして、動物薬をみつけることにも取り組みました。当時、動物薬をやっている人がほとんどいなかったのでやってみようと思ったんです。今思うのは、私のできることは限られていますが、いろんな人がいろんなことをやるのを結び付けるのが私の仕事じゃないかなと。しばらくして「君子は器ならず」という言葉を知ったんですが、リーダーは専門も大事だけれども、もっと大事なことは全体を見渡して、研究者達がそれぞれの特色を活かした仕事をするようにするのが役目だということを知りましたが、私はそれをやったのかなと思いました。

      島田学長 
       山中先生は京都大学iPS細胞研究所「CiRA(サイラ)」を起ち上げられました。私はその名前に感動しました。サイラというのはCenter for iPS Cell Research and Application、RAはリサーチ&アプリケーションですよね。アプリケーションと言うのは応用ということで、先生は最初から臨床応用が重要と考えられていて、それが成功していろんな輪が広がりつつありますね。

      山中博士 
       iPS細胞ができるまでは本当に小さなグループでやってきましたが、できてからはどうやって医療応用にもっていくかが課題となり、全く違う仕事になったと思います。自分では医療応用はできないので、いかにチームを作るかが大事でした。それが「サイラ」の仕事です。同じ研究者ですが、仕事の中身はiPS細胞ができる前と後は違いますね。両方ともすごく大切ですが目的が違っていて、前の基礎研究は0~1を生み出すもの、あとの応用研究は1を10にも100にもするもので、明確に違う研究です。それを意識して取り組んでいます。

  • ▼平坦な道より難しい道を行け

    • 島田学長 
       今、日本の科学技術力の低下などが問題になっていますが、国立大では研究予算が大幅に減っていて、国立大学の教育研究の危機だと思いますが、その点については先生方はどうお考えでしょうか。

      大村博士 
       この前、ある本を読みましたら、「文明の衰亡の要因は、繁栄の要因中に見出される」という言葉がありました。振り返ると日本は科学技術を発展させてここまできました。でも今、先生も言っていましたが、予算が減っているということで、この言葉どおりにならなければいいなと思っています。山本有三の『米百俵』という戯曲がありますが、貧しい時ほど、厳しい時ほど教育をちゃんとしないといけないと言っています。大学の研究予算が減っているということは、もっと本気で考えて、衰亡の要因となるようなことは避けていかなければと思います。地方を活性化しなくては日本全体は活性化しないと思います。そういう意味でも日本の研究予算が減っているというのは、由々しき状況だと考えています。

      島田学長 
       インパクトファクターなどの質の高い論文は、先進国の中で日本だけ減っています。大きな理由はそういうところにあるのかと思います。若者がなかなか研究の道に入らないとか、留学をしようとしないとかいう傾向も現れていて、日本の危機と思っていますが、山中先生のところはそういうことはないでしょうか。

      山中博士 
       僕たちは今、京都大学の恵まれた環境でやらせてもらっていますが、僕の研究生活の大部分は大阪市大でやってきました。大学院の時は年間100万円ぐらいしかなく、通常100回の使用とされている実験キットをいかに400回使うかという創意工夫をしていました。でもそれがあたり前みたいになっていて、そんな不自由は感じませんでしたね。恵まれた環境とそうではない環境の両方を経験している身から考えると、日本の予算は限られていて、少子高齢化もあり大学も大変になりますから、国と大学の両者が変えるべきところを変えていただきたいなと思います。研究費の総額は変わってないと思いますが、運営費交付金という安定的なものが減っていて、競争的資金は増えていると思います。運営費交付金をある程度伸ばしていかないとリスクの高い研究、優秀な人材の確保は無理だと思います。大学も手前みそですが、東大、京大は日本を代表する大学でなければならないですが、各地にミニ東大、ミニ京大があってもあまり意味はないと思います。各大学が特色ある研究をすることが大事だと思います。今日、山梨大の若山照彦先生の研究室を見せてもらって感動しましたが、ここにいけばこれができるという特色を各大学が出すことが必要だと思います。

      島田学長 
       最後に若人へのメッセージをお願いします。

      大村博士 
       スコットランドのセントアンドリューズ大学の総長が「最近の若者は楽な道を行こうとする」と言ってしましたが、世界的にそうだと思います。でもそんな時代の今こそチャンスです。その状況の中でひと踏ん張りすると、成功の確率は高いと思います。平らな道よりも少し難しい道を歩くことに挑戦してほしいと思いますね。

      山中博士 
       挑戦というのは大村先生と全く同じです。それと人の教えを謙虚に受け止めてほしいですね。僕は留学時代、講演の仕方を教えられたことがありました。講演の際にスライドで強調したい部分を私はポインターをクルクル回して示していたんですが、周りから「目が回るからやめろ」と言われました。それを真剣に受け止めまして、奈良先端大の採用選考でプレゼンをした時に、ポインターの動かし方に特に気を付けました。選考委員長の植物の先生の前で話をしたんですが、終わってから「僕は植物だから研究のことはわからないですが、あなたはポインターをピッと止めていましたよね。それを見てあなたは科学の教育をものすごくちゃんと受けた人だと思いました」と言われました。私はピッととめてiPS細胞ができましたから、人の教えは謙虚に受け止めるものですね。

      大村博士 
       それからもうひとつ、若い人には本当に信用のおける友達をぜひ持ってほしいですね。いろんな分野の人でいいんです。困難な時、喜びの時、友達がいることで人生をもっと豊かにすることができると思います。

      島田学長 
       やはり、大村先生がいつもおっしゃっている「一期一会」、人との出会いというのは、本当に大事だと思います。以上で対談を終わらせていただきます。本日は本当にありがとうございました。